看板建築
前から見たときには四角いビルなのに、横から見ると、瓦屋根やトタン屋根の家。
藤森照信氏は、看板建築を「断片的でデタラメなシロモノ」と述べています。その理由は、前面の装飾を、大工だけでなく、画家(絵描き)が施主である商店主がデザインしたものがほとんどだからです。要は、素人が手がけたものということ。また、装飾も庶民的でした。
看板建築が多いのは関東で、西日本ではあまり見かけないそうです。
しかも、市街地の中央ではなく、周辺部の商店街に看板建築が見られます。
・中心商店街の変化蔵造→表情豊かなバラック→アール・デコ・ビル・周辺商店街の変化出桁造→ただのバラック→看板建築
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蔵造(川越市ホームページより) |
軒が張り出した出桁造 |
看板建築の多くは、関東大震災(1923年)の復興期である1923(昭和3)年頃に建てられました。
この年に東京都では区画整理が行われたのですが、復興計画の中で路地のスペースの指導が行われませんでした。結果として、無計画に路地を通すことになり、曲がりくねったり、袋小路になったりしました。併用住宅では前面が店で、路地側に勝手口を作って汲み取り(し尿処理)や家族の出入りなどが行われていたそうです。
また、当時の商店では、働いている女中や店員、職人が同居していたので、看板建築は超過密住宅になっていました。
核家族化の進んだ現在では、なかなか想像できない状況です。
市川市内にも、看板建築がまだ残っています。関東大震災や太平洋戦争(1941~1945年)をきっかけに、東京から市川へと逃れてくる人が多数いました。そして駅の周辺で、闇市から商店へと変わっていく際に、商店主が看板建築を持ち込んだのではないでしょうか。
撮影日:2024年10月
撮影者:クラナリ
場所:JR本八幡駅北エリア、八幡一番街
撮影者:クラナリ
場所:JR本八幡駅南エリア
撮影日:2023年4月
撮影者:クラナリ
場所:JR市川駅南エリア
撮影者:クラナリ
場所:JR市川駅北エリア
正面 |
横 |
裏 |
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